徳川家光―三代将軍 学びの書


徳川家光―三代将軍、葵の御代の治と断徳川家光―三代将軍、葵の御代の治と断

学研 刊
発売日 2000-07




自らを、生まれながらの将軍と宣言して、

幕府の創始者・神君家康公を尊崇して「二世権現」を自任した徳川家光。

徳川政権の黄金期を築く事になった将軍親政。

三代将軍の、全生涯を追いかけます。

江戸城大天守などのイラスト再現も掲載されています。

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人物日本の歴史・日本を変えた53人〈4〉人物日本の歴史・日本を変えた53人〈4〉
高野 尚好
学習研究社 刊
発売日 2002-02




小学校で習う日本史で必ず登場する42名に加えて、

教科書にほぼ登場する11名の人物をしたしみやすく

学習できるように工夫がされています。

登場53名の物語の後には「人物のなぞにせまるQ&A」の

ページがあり、その人物の活躍した時代背景や、

その人物の業績などが、さらにくわしく紹介されています。

「人物調べ情報ガイド」では、調べ学習のヒントになるような

情報源なども、紹介されています。

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徳川家光と家康公


家康への崇拝の念が非常に強かったと言われている
徳川家光

その背景には、どのような事があったのでしょうか

何と言っても一番は、家光自身を将軍後継者に指名した
家康に対する気持ちが強かったのでしょう

家康への崇拝の念が非常に強かった徳川家光は
心優しく、病弱で、少年時代はとても内気であったと伝えられている

春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」には
徳川家光が、病弱で3歳時に大病した際に
家康の調薬によって快復したという話もある

以後も、病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復した
とするような逸話が伝わっているということからも

家光の家康への想いが、感じられます

また、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していること
にも、何か運命的なものを感じていたのかもしれません

世継決定における家康の裁断については
家光自身も、家康の恩徳を記す文書を残しているほど

狩野探幽に家康の像を描かせていることなどからも
家光が、祖父家康の恩を意識していたと考えられています

東照大権現として祀られた祖父の家康に対しては敬神していたといわれ
寛永13年(西暦1636年)に東照宮を造営すると
日光社参を生涯で10回と頻繁に行っているほどの思い入れだったようです

家光の政


徳川家光に政権移譲した後も、徳川秀忠は大御所として
軍事指揮権などの政治的実権は掌握し続けたと言われています

幕府の政治は、本丸年寄と西の丸年寄の合議による「二元政治」
だったというわけですね

寛永9年(西暦1632年)に秀忠が死去すると
二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始めるようになりました

徳川家光は、どのような政治をとりおこなったのでしょうか

家光は、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定めて
現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立したと言われています

また、寛永12年(西暦1635年)の「武家諸法度」の改訂では
徳川家光が、大名に参勤交代を義務づける規定を加えたのは有名です

対外的には、長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびに
キリシタン弾圧を強化していきます

寛永14年(1西暦637年)の島原の乱を経て寛永18年(西暦1641年)までに
徳川家光は、鎖国体制を完成させました

これらの、徳川家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は
「武断政治」と言われています

寛永18年(西暦1641年)には嫡男の竹千代(のちの将軍家綱)が生まれています

徳川家光は、幕藩体制の完成者として高く評価される一方で
日光東照宮の建設などに家康以来の蓄積を使い、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われる人物です

                (Wikipedia一部引用)

家光の誕生

徳川家光は、慶長9年(西暦1604年)7月17日、江戸城にて生まれています

徳川家の世継であった父秀忠には、慶長6年に誕生した長丸という男子がいましたが
既に早世していた為世子として扱われ、家光が祖父家康と同じ幼名「竹千代」を与えられました

この生誕の幼名の話にも、徳川家光と徳川家康の
つながりを感じるのは私だけでしょうか・・

徳川家光の誕生に伴って、明智光秀の家臣・斎藤利三の娘である福(のちの春日局)が
徳川家光の乳母となり、稲葉正勝、松平信綱といった小姓が付けられたそうです

その頃、征夷大将軍であった徳川家康は、駿府へ隠居して大御所となっており
秀忠は慶長10年(西暦1605年)に将軍職を継承しました

翌年の、慶長11年(西暦1606年)に弟の国松(後の忠長)が誕生

徳川家光は、幼少時には病弱で、容姿も端麗とは言えなかったようで
『武野燭談』によれば、秀忠らは忠長を寵愛しており
家光と忠長の間には、世継争いがあったと言われている

そんな徳川家光を将軍へとバックアップしたのが
かの有名な春日の局ですね

竹千代廃嫡の危機を感じた福(のちの春日局)は、駿府の徳川家康に実情を訴え
憂慮した祖父の家康が嫡庶の序を明らかにし
徳川家光の世継決定が確定したと言われています

これらは、家光死後に成立した巷説ではありますが興味深いです

徳川家光は「二世権現、二世将軍」を書いた紙を、守り袋の中に入れ
父の存在を打ち消しています

その一方で、自分を将軍後継者に指名した家康への崇拝の念は非常に強く
家康をまつる日光東照宮を、秀忠が造営した物を改築し、現在見られる壮大なものを完成させている

将軍就任に際し、「生まれながらの将軍である」と高々と宣言した徳川家光
家康への崇拝の念が強かったのも、うなずけます

                      (Wikipedia一部引用)

徳川 家光 江戸幕府・第三代将軍


  【 ドラマ「大奥」から時代背景を知る 】

「大奥」を見て、江戸時代の将軍や大奥での女性の生き様に
興味を持った方も多いのでは・・・

私もそんな一人です

歴史というのは、とかく人物像が難しく
とっつきにくい感もありますが

「大奥」をみるうちに、人物像が把握できて
江戸時代の政治や時代背景が面白くなりました〜

初代徳川家康の時代から、江戸城に「大奥」と呼ばれる
区画は存在していたそうです

その当時は「表」と「奥」の境界線のようなものがなく
正室や女中などが、表に足を運んだり
家臣らが奥を訪れるということもあったとか

その後、徳川家光の時代になり
家光の乳母の福(後の春日局)が
「大奥法度」を定めて、実質の「奥」を作ったんです

【 時代の影に、女あり 】

まさにこの言葉があてはまるんですね
 
そんな江戸時代前期、江戸幕府の礎を築いたのが
「徳川家光」ではないでしょうか

江戸時代の代名詞と言われることの多くは
この時期に形になってることが多いと感じます

そんな「徳川家光」の時代の出来事や人物背景に
迫っていきたいと思ってマス